昭和五十一年十一月二十七日朝のご理解
松永享四郎
ご理解第七節
「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」
合楽理念を基にして、今、合楽で云われる実意丁寧神信心、所謂為そうと思えば、子供でも成せる事を、おろそかにしておった事を改まって、これを、行の上に表して行く事は、その内容に天地日月の心なしには出来ない事であります。
だから、言葉を変えると、今の合楽の信心が完璧の域に入ったと云う事は、天地日月の心になる事肝要であると云う事を、体験の上で、頂き表して行くと云う事に外ならないのです。
天地日月の心になる事と云う事は、天地金乃神様の心の中に、私共が入ってしまうと云う事にもなるのです、愈々、もう拡がりに拡がり、神様の願いである、氏子信心しておかげを受けて呉れよと云う、教祖様が、天地金乃神様よりお知らせを受けられて、そして、私共にお取次ぎをして下さる。
そのお取次ぎの働きと云うものは、願う氏子に、先ずおかげを授け理解申して聞かせ、合楽の方達は、その理解申して聞かせて貰い、愈々、そこから、判らして頂いたものは、天地日月の心だと云う事になるのです、所謂、合楽理念なのです。
天の心、限りなく与えて与えて止まない心、美はしい心。
地の心、受けて受け抜く心、それこそ、黙って辛抱し抜いて行く、しかも、自分の心の肥やしともして行く、と云うのが地の心。
日月の心、所謂、実意丁寧神信心、皆、合楽理念の中に入ってしまうでしょうが、だから、それを行じて行く。
例えば、昨日のご理解を引用致しますと、氏子が真から用えるのは、神もひれいじゃがと仰有っとります、金光教の信心は寄進勧化で始まるのじゃない、立って行くのじゃない、只、氏子がおかげを受けてその真を表して行く、信心の真を表して行くと云うのが、お道の信心の在り方、その真の信心を表して行くならばです、神もひれいじゃがと云うところが素晴らしい、神も活き活きとして働いていけれると云う事なんです。
神は喜びじゃなくて、神もと云う事、もう神も活き活きとして働かれるぞ、と云う意味がある訳です、神様が、活き活きとして私共の上に働いて下さったらどう云う事になるかと、とても、それはそれは、もう本当に素晴らしい事になるのです。
合楽理念に立脚して実意丁寧神信心とは、天地日月の心、そのまま表して、だから、これは、その偉大と云うか、もうその底のない大きさ、天地日月と云うのは、だから、その云うならば、入り口に立った訳です合楽は、だから、これは限りなくこれを推し進めてさえ行けば良いのである。
その推し進めて行く過程にです、昨日のご理解をまた引用致しますと、当てになる人、云う事を聞く人、これが、愈々繁盛の道を教えると云う事であり、繁盛の道に繋がると云う事になるのです、当てになる人、云う事を聞く人、繁盛の道を、それは、教えると云う事は、先ず、当てになる人になれよと、どんな事でも、例えば泣く泣くでも、云う事を聞けれる素直な心にならせて貰えよ、実行力を作って行けよと云う事なのです、ね。
そう云う修行が出来て行くところから、天地日月の心は自ずと備わってくるのです、今日は、いっちょこの辺のところを本気で一つ頂いて貰いたいと思うですね。
当てになる人、云う事を聞く人、これは、愈々繁盛の道に繋がる、本当に当てになる、まあ例えて云うならば、親先生の腕にも、足にもならせて貰う、その腕か、足が、向こうの遠かとこにどんあったちゃ役に立たんもんね、合楽示現活動に本気で参画する、と云う決心がついた、それは、親先生の手にもなり、足にもなる、云うなら、神様の手にも、足にもなると云う事になるのです。
合楽示現活動に参画すると云う事は、神には、言葉もない、姿もない、だから、私共がです、神様の手にも、足にもならせて頂こう、そう云う人を神様は求め給うのです。
今、合楽で一生懸命の信心修行が出来ている人は、神様が、愈々あなたに白羽の矢が立っておられる人達です、手にも足にも使おうとなさってる、神、人を求め給う、日田の堀尾先生は、のお言葉です、そう云う人を求め給うておるのです。
当てになる人、ここに、天地の心が、云わば備わって来なければ、限りなく与えて止まない心、限りなく受けて受けて受け抜く心、自分の都合でも云うておったんでは、ああ、あんたにお願いしようと思いよったばってが、そうの、と云わにゃならんごとなって来る、自分の都合は振り捨てて、はい、ならおかげ頂きましょうと、こう云う行き方になった時に、当てになる人と云う事になるのです。
今日はね、もう、実はもう、私は胸がわくわくしているのです、もう、大変な事を頂いとるんです実は、そして、ご理解を開かせて頂いたら、このご理解七節です、天地金乃神と云えば昔からある神ぞと云うここのところね、だから、天地は流行る事もなければ、終わる事もない、もう只繁盛して行くだけだと、云うここは、皆さんもそれだけでも、合点が行くでしょう、私共が拝まして頂く、天地金乃神様は、そう云う神様だ、只、日月の心になる事が肝要だと云う事が、まあ、今日のご理解では一番大切なところです。
その天地日月と云うのは、今、合楽で云われておる、合楽理念に基づいて、そして、実意丁寧です、それもです、為そうと思えば子供でも成せる様なところを、おろそかにせずにやって行こうと云うのが、日月の心、天地日月の心、肝要なりと仰有る、その肝要な信心が、合楽の信心は、今の信心理念は、スッポリと入ってしまう訳です、そこでその、具体的に、天地日月の心を身につけて行く事の為には、どう云う事がいるかと云うと、当てになる人を、願わなければならんと云う事です、当てになる人にならなけりゃならんと云う、どうぞ、それを願わなければならぬ、また、どう云う事でも、云う事をでも、はい、と云う事を聞く。
先日から、泉尾の先生のお言葉の中にもありました、親が毒な物を食べよと云う訳もなからなければ、親の下さる物に、そつな物はないと云う、神を信じるところからです、云う事が聞ける様になるのです。
ちょっと、このうどんを食べてみれ、それこそ、見たところが、もう血膿みの様な物がうどんの上にかけちゃる、本当に氏子に力をつけて下さろうと、度胸を作らせて下さる、神様のお試しです、食べてみたところが、卵と紅か何か使って、上に血膿みのごたるところ、食べてみたら、とても美味しかった、と云うのであります、だから、云う事を聞くと云う事は、そう云う事、また、自分の都合の良い事ばかりでは、ないと云う事です。
或る、婿選びがありました、大変な億万長者です、力の強い、云わば度胸のある人を求めてるんです、もう全国から沢山の人が集まって来た、ところが、皆それが失敗です、最後に残った青年が、段々いろんな試験に合格して進んでいったんです、だから、愈々、ここの跡取り、所謂、私の婿さんになって頂く方は、もう貴方にほぼ決まった、そこでです、私には、こう云う趣味や、こう云う癖がある、それで、私の部屋に一遍来て下さい。
私の部屋で、私の云うならば、趣味を貴方に聞いて貰うと云う訳です、その娘さんの部屋に入って見て驚いた、もうそれこそ、骸骨が累々として、積み重ねてあった、然も、骸骨のその手を折り、足を折って、ポキポキ折って食べた、そして、貴方も一本どうですかと、こう云う訳です、もうそれこそ、身震いのするごとあったけれども、九分九厘合格して通って来とるとだから、それこそ、命がけでそれを頂いたところが、それは何と氷砂糖で出来ておったと云うのです、本当のおかげと云うのはね、そう云うところがあるんです。 昨日は、土居の共励会でしたから、皆さんがもう12時頃帰って来ました、そして、私の部屋へ、正義先生、文男先生、それから、繁雄さんと3人で見えて、もう信心話に夜を徹してから、お話しました事でしたけれども、文男先生がこう云う事を云うとりました。
例えば、借金を負っておると、例えば、文男さんが場合では、京都なら京都に卸し元があるとこう云う、そこから、どんどん出して貰うておかげを頂いて、商売が出来る、ところが、なかなか手形が落ちん様な時には、又、それを向こうに頼んで、落して貰うたり、又は、借金やら大分積み重なって、何時いつ払うと云うても払えない時もある、そう云う時に、私はどんなに払えない様な時であってもです、それを必ず断わりを云うたと云うのです。
こげな訳で払えんから、もう暫く待って呉れと、そりゃ良い顔はしませんけれども、やっぱりそれを云い続けて来た、そして、自分の同輩と云うですか、同業の人が大変困っとるか、難儀なとかと、最近はおかげで、卸元に払えない事はない、おかげで、ず-っと幾らづつじゃあるけど、残って行きよる、けど、初めの間は、云うなら、無資本状態でやったちゃから、そう云う事もある、断わりを必ず云うて廻った、それで、今、難儀しておる、困っておる人達にです、だから、お前達もね、出来んなら、出来んごと云うて行けと、断わりに行けと。
親先生の一番修行中に、親先生自身いつもこれが、大変なそれこそ、修行じゃったと云われるのは、借金を負うとるところにもうそれこそ、月の内何回か、10日待って下さい、1週間待って下さいと云いげに行かんならん、もう払う当てはなかつじゃから、もう終まいには、あんた、またしらごと云いに来たとじゃろうと、皆云われよったです。
借金の断わりを云いに行くとです、だから、行かんなら行かん方が良いです、放ったらかしとこうごたるですけれども、やっぱりです、もう本当に家のぐるりば、ぐるぐる廻って入り込みはきらじゃったです、それでも、生神金光様を唱えて、ほんなこて、それこそ死地に飛び込む様な気持ちで、飛び込ませて頂いて、やっぱり頭を下げて断わり云うて来た。
そして、私が、大城の停留所で相撲取りの話を聞いて、そして、心の中に元気、それこそもう、行かれんじゃない、それこそ、矢でも鉄砲でも持って来いと云う、勢いで堂々と断わりにやらせて頂いた、それを境に、もう大坪さん来て貰わんでんいいですばい、もうあんたが本当に払える時に、払って呉れんの、もう断わりに来んでんいいよと、向こうから云われたのはその時でした。
だから、親先生がね、そう云う修行をしてござるじゃないかと云うのです、実意丁寧とは、それなんだ、実意丁寧とは、只、子供でも出来る様な事をおろそかにすると云う事の中に、そう云う事すらある、何遍しらごと云うてもよか、やはり、そこに払えんなら、払えんと、実意丁寧に云うて行けと云いますが、なかなか云う通りにしませんと云う様な話を、文男先生が致しました。
ほんなごつね、もう兎に角、師匠が通った道じゃから、もう元気一杯でやり抜いたところに、文男先生が、だんだん、少しづつであるけれども、伸びて行きよるおかげが受けられたのですよね、云うなら、当てになるね。
昨日、久留米の井上さんです、井上カツミさん、井上太郎君のお母さん、昨日の朝のご祈念に参っとられました、今朝からお夢を頂きました、いやもう私は、聞かせて頂いてから、今朝のご理解たい、しかも、私は今朝のご理解に説き得ていないところは、あんたのお夢で頂いとるたいと云うて話した事でございましたけれども、こう云うお夢を頂いた。
もうそれは、見事な素晴らしいお家に、合楽のご信者さん方が、知った方が、大分集まっとられる、それに、向こうに見事な襖があって、襖が開いたと思うたら、親先生が、羽織、袴で出て見えた、そして、私に、井上さん、今日は御霊さんの洗い清めがあるもんね、だから、あんたもご用頂きなさいと仰有った、その時に、御霊さんの洗い清めは、死んだもんの洗うたり、清めたりせんならん、とてもそげん事は出来んと思うてから、親先生の顔を見きらずに、横向いとった。
そしたら、親先生が、あんたげの太郎さんが、大体下洗いしとると、だから、おかげ頂きなさい、息子が下洗いしとると、その上を、私に親先生が、ああ云うて頂くからと思うておりましたら、又、襖がパ-ッと開いた、そしたら、そこに、もう累々と御霊さん達が、こう、置いてあったと云う訳です、ね、死体が置いてあった、そして、もう襖を開けた途端に、臭いが、それこそ死臭がプンプン夢の中でね、もう漂うと云うところで、目が覚めたと云う。
だからね、当てになる人、云う事を聞く人、と云う事にはね、そう云う事もあるんです、先生もうそれだけは出来ません、と云うたら、もう云う事を聞く人にならない訳です。
昨日、そこのところを、私は、説いてなかったですね、昨日のご理解をあんな風に聞いて頂いた、けれども、只、云う事を聞くと云う事だから、只、簡単にこう思うとった、ね、例えば、親が子供に「おひゅうぎん」をやる、今、毎朝私のところに、この頃から、伊万里の、お菓子屋さんから、こう云う物を作る様になりましたと、云うて、沢山チョコレ-トのお供えがあった、私の部屋に持って来た。
それで、毎朝、恵城が、おじいちゃまお早ようございます、を云いに来る訳です、そして、あのチョコレ-トをいっちょづつ貰うわけです、なら、目をつぶっとかんのと云うと、あるところを見するとあれが、一遍に欲しがりますからね、だから、目をつぶらせて一つづつやるわけです、毎日やって来るです。
見事に云わば、云う事を聞く訳です、だから、おやつをもって、云う事を聞かせる時には、本当に赤ちゃんの時であり、初歩の時です、けれども、段々云う事を聞くと云う事が、この様に有り難い事かと、段々判って来てからの事ですから、云うなら、血膿みのごたる物が乗っとる、うどんでも食べて見たら決して血膿みではなかった、卵をそう云う風にしてあった、そして、度胸を試して下さったんだと云う事が判る、力を与えて下さったんだと云う事が判る。
井上さんの場合でも同じ、昨日のご理解に、云う事を聞くと云う事は、いやそげな事は出来ませんと、云う様な事でも、やろうと思えば子供でも出来る事、大体はね、おやつを見せびらかすでなくて、そう云う意味でもです、云う事を聞く人です、だから、そう云うところがです、私は、泣く泣く辛抱しいしいに、と云うところではないでしょうか、後で考えて見ると泣く事はいらじゃった、けどその時はやっぱり、血の涙の出る事もあるけれども、当てになる人、云う事を聞く人、これはもう絶対繁盛の道に繋がる。
昨日、正義先生が、お話していました、本当に心行させて頂く様になったら、家の中が本当にキチッとなる、今迄、ろくそにしとったところを、本当に心行を込めてさして貰う、お便所のスリッパ一つも心を込めて、こうやって揃えとく、昨日の朝は、私が晩遅く帰って来て便所に行って、綺麗に並べて、それこそお菓子の様にこう置いてあった。
翌る朝、ご祈念に参って来んならんから、又、便所にやらせて頂いたら、まだ、誰も便所を使うとる風はなかった、自分が夕べ並べた通りの風にキチッと2足のスリッパが、並べてあった、もうそれを見た途端に感動が湧いて来た、本当に心行ちゃ、それじゃんねと云うて、昨日話したんです、自分のしている事に自分で、自分の心が拝みたいごたる心が生まれて来るのです。
先日も、ある同業の寄り合いで、料亭に行った、そして便所に、お酒飲むと便所に立ちますから、便所に立つたんびんに、スリッパが散乱しとる、だから、私は錯覚して、俺は今日は飲みに来とるとじゃのうして、スリッパ揃えに来とるとじゃろうかと、思う事あったと云うんです、それは実感ですから、ところが、3辺、4辺、5辺と、便所に行くたんびんに揃えよったら、その事が有難うして、有難うして、本当にスリッパ揃えでも良いと思うたと、云うて夕べ話とりました。
あのう、心を込めてスリッパ一つ揃える、する事も有り難いならそれこそ又、翌る朝、見るのじゃない拝ませて頂いとる訳です、そこに感動がある。
私が、繁盛のね、繁盛の先導をして呉れるものは、この有難いと云う心だと思うです、こりゃもう、絶対そうですばい、皆さん、どげな風に、ここに、大きな一つの仕事を思い立つと云う事に致しましょうか、その大きな仕事の先走りは、云うなら有り難いです、有り難いなあ、勿体無いなあ、どげん考えても勿体無いな、それが先導しなければ、良い仕事が出来る筈は絶対ないです、ね。
事をなす前に本当に有り難い、本当に勿体無い、と云うその心が先導して呉れるんです、だから、皆さんがやっておる前に、その有り難い、勿体無いか、先に云っておるかどうかを、一つ見なければ本当の繁盛には繋がらんです。
それには、合楽理念を土台にして、実意丁寧神信心、云うならば、便所のスリッパ一つでも、思い心を込めての、云うならば、そう云う修行をさして貰うと期せずして湧いて来るところの感動です、その感動が仕事を導いて行くのです。
成る程、そう云う頂き方をするけん、あんたがおかげ頂くはずじゃんね、と云うて話ました、だから、折角それだけ、文男さんでん、正義さんでん、それだけ、おかげを頂きよるけん、それを惜しむらくは、もちっとそれを、本格的なものにして、なら、家族中の者の信心になって行く様なおかげを、頂かねばいけないね、と云う事でございました、ね。
そう云う有り難い信心が、こんど、正義先生のところは、ああ云う広大なゴルフの練習場をさせて頂いて、それこそ、広々と敷地を購入させて頂きました、ところが、その方はあんまりパッとしません、ところがあの事をお許し頂いて始めた頃から、仕事の方がそれをカバ-する以上にお繰り合わせを頂いておると、云うておりますしかも、今度は、お神様の部屋が、一部屋広々と出来ます、もうそれこそ、備州桧の原木を買いました。
ここも1本、正義さんも1本買いました、1本が30万ですかね、30万用意して、今日払うごとなっとるです、お神様のお部屋ですから、もうそれこそ、桧の香りのプンプンする様な、お神様の部屋を、しかも広々と、それには、茶室風の控えまで出来る様にして、今度、来月の26日にその報告祭をして頂たいと云いよりますが。
おかげがね、おかげから、おかげを生みなして行く様な、おかげを頂いて行きよると云う事実をね、皆さんが見たり聞いたりされて、本当に一つ本気で当てになる人、本気で云う事を聞く人にならせて頂く、だから、その言葉を聞くと云う事も、始めから難しい事ではない、それこそ、チョコレ-トを見せびらかしといて、云う事を聞かせるところからです、段々成長させて頂いたら、それこそ、とてもこげなもんが、食べられますもんかいと思うごたる、血の膿みのかかっとるごたる、うどんでもです、親先生が食べろと云われるから、はいと云う心にならせて貰うと云う事、食べて見たら、とてもとても美味しかった。
こりゃとても、かえって栄養がつくやろうと云う様な物しか、親は与えはせんと云う事を、絶対それこそ、井上さんが頂いとられる様に、親先生そげな事は出来ませんと、向こう向こうごたる、それこそ、臭いがプンプンするごたる、死臭が漂う様な嫌な雰意気であってもです、それを、なら、歯を食いしばってでも、させて頂いた後の云うなら、御霊の助かりと云うか、神様の喜びが、照り返って来ない筈はないです。
だから、今日は当てになる人、云う事を聞く人はもう絶対繁盛の道に繋がる、その繁盛の先棒を担うと云うか、先鋒を承るものは、有り難き、勿体無き、恐れ多き、だと云う事です。
どう云う事を思い立ってなしよってもです、なら、正義先生がそう云うご普請を始める、兎に角云うならば、どげん考えても、有難うして、勿体のうして、例えば、組合の会合にやらせて頂いて、あら、俺は便所のスリッパ並べに来とるとじゃろうか、と錯覚する位の修行を、度々させて頂きながら、その事が有難うなって来ると云う、有難うなって来るものが、次のなそうとする事業なら事業の、おかげなら、おかげを導いて呉れるのです、なそうと云う前には、どうでも、有り難き、勿体無きが、先に立って行く様なおかげでなからにゃいかんです。
それとはね、文男先生が、夕べ云う様に、そりゃ借金の断わりに云うとは行こうごとなかて、それが何辺でん重なると、ばってん、親先生が通うた道じゃからと、思うたら、やれん事はなかった。
お前達もやって見てんかと、云わば借金で首の回らんと云うごたる、同業者の人達に、云うて聞かせるけれども、なかなか出来ん、卸元から、だから、愈々信用を落して、ますます難儀な事になって行く、そう云う人達を、僕の周囲に知っているけれども、そこんところを行じて行く、そこんところを、どうでも、それが出来る為に、天地日月の心と云うものが、内容でなからなければならない、いや、それをスッポリ包み込むのが、今の合楽理念に基づいて、為そうと思えばなせれる、例えば、子供でも出来る事を、おろそかにしておった行いに、心行を込めて、心を込めて、それを行わせて貰うところから、どこから湧いて来るか判らん、そのスリッパを拝もうごたる、有り難い心が生まれて来る、その有り難いと云うものが、おかげの先導だと云う事を今日は聞いて頂いたですね。 どうぞ。